読了。
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おもしろく読んだのだけど、どうしてもまずは表4(いわゆる裏表紙)の惹句の批判から入りたい…。
「相矛盾する記述が、なんの補足もなしに、歴史的事実のような体で提示される。私たち読者は、どちらの記述を信じればいいのかわからない。」
これは訳者あとがきから表4へ抜粋された一文である。訳者としては本書のうちのかなり限定的な箇所への言及しただけの箇所であろう。全体を表現ために使うには、全く相応しくない部分をわざわざ抜き書きしているように感じられる。
なぜというにこの本全体が、いわゆる「信頼できない語り手」による叙述に満ちていると考えるよう読者を(誤って)誘導するような文言であるから。
しかし実際にはこの一文はあくまで訳者が、この本の最初の部分を紹介するのに使った語彙であり、全体について語るものではないのである。
(そのため私は、訳者ではなく編集者へ批判的である)
本書全体としては、時系列的な矛盾を探すような読み物ではない。
「相矛盾する記述」はより正確には「相矛盾する証言」である。「私たち読者は、どちらの記述を信じればいいのかわからない。」と言っているが、その言い方では「いずれかが信じるに値するもの=真実」であるかのようである。つまり「いずれもが偽である」という可能性を排しており、私の考えではこれは不正確な表現である。「いずれの証言も偽である」可能性までもを考えて読むべきであろう。
それがよりロマンチックであり劇的である(少なくとも劇的であるとはどういうことかを考えるよい材料になる)。
語り自体は時間的に真っ直ぐ進むというわけではなく、母の両親、父の両親へ思いを馳せたあと急激に自分の時間へ帰還したりもするので
やや捉えにくいところもあるが、
本書全体を通じて、時系列を追う必要がそもそもないような、内省的な作品である。
本文全体としては直線的な時間の進行ではないが、オートフィクションとして、書き手とともにセンテンスを追っていけばいいものなのではないかと思う。叙述の信頼度を疑う必要なく読み始めるべき作品だろう。
だから表4にこの一文を抜き書きした編集者は、読者へ誤った印象を与える部分を抜粋しているように思えて、自分としては不満である。
批判が続いて申し訳ないけれども、編集者はこの本の成功を遠ざけているようにしか思えない。
なんと言っても、邦題に『異邦人』なんてものを選んだそのセンスである。
日本において『異邦人』といえば、カミュの異邦人であることはもちろんのこと、
窪田啓作による「きょう、ママンが死んだ」までを包含したすばらしい訳業の輝きであるからして、
別の本に寸分たがわないこの題をつけるというのは、商業的な面からも、この書籍を唯一無二のものにする作業を怠っているように見えてしまう。
イタリア語でカミュの異邦人は Lo straniero であり、こちらの本の方は la straniera のようである。つまり「同一の題」ではない(la straniera はオペラで同じ題のものがあるみたいだけど)。
私自身は英訳『Strangers I know』の題の方を先に知っていたので、なんで『異邦人』なんて題になってしまったのかしらと強く訝しんだが、
原題はカミュの題、そしてそれのイタリア語訳の題に思いを馳せたうえでつけた題のようである。
日本語にするにあたっては『異郷人』なり何なり、他にやりようはいくらでもあったと思うのだが、全く同じ題を日本語で与えるというのは、何度考えても本が気の毒である。
さらに帯文に抜粋されている文も、なんだかイマイチのように感じてしまう。すなわちこの一文。
「ひとつの家族の物語は、一冊の小説よりも、一枚の地形図に似ている。」本文より
この本はそもそも「家族の物語」ではない、と考えてみるべきなのではないか。
もちろん書き手にとって家族は重大なファクターではあるが、家族以外の人間との関係の結び方について詳細に語る箇所もある。
では何の物語か、といえば、私なら「家族を見る自分の目というフィルターを見ている書き手の目の物語」、と言いたい。
なんせその帯文の段落は、次のように締めくくられるのである。
「…そうして人は理解する、自分の血のなかにあるすべては呼び声であり、自分とは、自分に先立つ神話の残響でしかないことを。」
p.63から
自分なら帯文にこの部分を抜粋する。
「一度も旅立ったことがないのに、自分を取り巻く日常とは別の場所にいるように感じている人たちのことを、はたしてどう呼べばいいのだろう?」
p.191から
編集者批判に終始してしまったけど、本書自体はとても良いです。
聾者の両親を持つ子として、あるいは移民として、すでにあることばからアイデンティティを探求するということにはならず、
目に映るものがほとんどすべて等価であるかのような記述に突き放される感覚はさみしくてそれがすばらしい。
